市立函館博物館友の会々報 No.49
平成11年3月31日
特集 中世の箱館
志苔館とその周辺からみる中世世界
佐々木馨
私たちに蝦夷島の中世を語ってくれる遺跡や史料は、非常に少なく限られている。それは中世世界を描くに当たっては、面などではなく、全く点でしかない。
その点として、私たちの「志苔館」とその古銭があり、「貞治の板碑」や「石崎の鰐口」がある。この小さな点しか伝わらないだけに、逆にさまざまな中世世界への謎解きや歴史のロマンも拡がるのであろう。
近年、少しずつ深まってきた中世北方史の研究成果を参看して、いくつかの仮説を御紹介したいと思う。
(1)「志苔館」はいつ、誰が築造したか
私たちの「志苔館」を含めた「道南十二館」の築造については、これまで、1430年〜40年代の安藤康季(あるいは政季)の渡島に、その成立時期を求めてきた。そのため、館の築造と長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの勃発が、ほぼ同時に起こるという年代的矛盾に悩まなければならなかった。この苦悩から解放してくれるのが、「志苔館」の築造をめぐる次のような仮説である。
すなわち、志苔館の築造を安藤康季の永享4年(1432)の渡道以前と捉え、安藤氏が本拠地の津軽十三湊において「日ノ本将軍」として、鎌倉時代以来の「蝦夷管領」の系譜に基づき、蝦夷島統治をしていたその一環として考えてみるという仮説である。つまり、従来の築造時期を約半世紀ほど繰り上げて、14世紀の後半に、志苔館は十三湊の「日ノ本将軍」安藤氏の蝦夷島支配の前進というべき直営港湾基地として築造されたという仮説である。
実は、この仮説、全く絵空事などではなく、これを傍証してくれるいくつかの痕跡がある。1つは、志苔館の発掘調査報告書である。それによれば、志苔館は14世紀末期に構築され、そののち、変遷的に機能していったという(『史跡 志苔館跡』、函館市教育委員会)。
2つ目は、『新羅之記録』が伝える鎌倉期〜室町期の渡道和人の総称たる「渡党」と志苔館の館主の小林氏との関係である。『蝦夷実地検考録』によれば、小林氏も、良景の祖父重弘の代に上野国(現在の群馬県)から渡ってきた「渡党」だという。とすれば、「渡党」に系譜をもつ小林氏が、14世紀末の重弘の頃、津軽十三湊の「日ノ本将軍」安藤氏の指揮・支持のもと、和人初の館、「道南の十二館」の嚆矢たる「志苔館」の第1期築造(14世紀末)を敢行したことになる。
小林氏によるこの14世紀末の「志苔館」築造を裏打ちする3つ目の痕跡として、私たちは、例の貞治元年(1367)の年紀銘を持ち、「旦那道阿慈父悲母同尼公」と陰刻された「貞治の板碑」を指摘することができる。どうやら、14世紀末期、「渡党」に出自する小林氏が、自らの生活の場でもあり軍事的な防衛の場でもある志苔館を築造したことは、ひとつの可能性として提示できそうである。
志苔館をめぐる今一つの謎は、かの37万余枚に及ぶ「志海苔古銭」の埋納である。
(2)「志海苔古銭」はなぜ埋納されたか
志苔館は、昭和43年7月16日、3個の大甕に埋納された大量の古銭発見によって、ひと際、全国的に有名になり、大きく注目される所となった。
この古銭にも、いつ、だれが、何の目的でという歴史的な関心が集まったことは、言うまでもない。
その埋納期の決め手となったのは、第1、2号の越前古窯、3号の珠洲窯の生産年代と埋納銭の最新銭の初鋳年であった。結論的に云えば、3個の甕の生産年代は、ともに室町時代の前期〜中期であり、最新銭の初鋳年は1368年の「洪武通宝」であった。
この結果、「志海苔古銭」の埋納年代は、14世紀後半と時期が限定され、前述の「志苔館」の第1期築造年代とほぼ合致することとなる。ともすれば、この古銭の埋納者として、まず想定されるのは、領主の小林氏であろう。十三湊の「海の領主」安藤氏と経済的な交流を持つ小林氏にして、初めて可能な営みである。
この古銭の目的をめぐって、さまざまな議論が飛び交った。やれコシャマインの戦いのための軍資金説だとか、やれ商業的な蓄積説だと。その中にあって、近年注目を浴びているのが、埋納に関する習俗的ないし地鋳的な宗教的アプローチである。先住民としてのアイヌと境を接する志苔館の立地条件と小林氏の経済力から考えて、「渡党」初の中世城館の志苔館と交易の港湾基地の安泰・繁栄を祈った地鎮供養説が最も蓋然性が高いと思われる。私の2つ目の仮説の提示である。
最後に、もう1つの仮説を示しておきたい。それは、「石崎の鰐口」に関わっての地域イメージである。石崎八幡宮の「鰐口」には、「奉寄進夷嶋脇澤山神御寳前施主平氏盛阿弥敬白 永享十一年三月日」と刻まれている。「脇沢」とは石崎の「宮の沢」を指すので、「脇沢山」神社なる祠が存在していたことになる。施主の「平氏盛阿弥」というのは、「阿号」を名乗る念仏系信者であろう。やや推測をたくましくすれば、永享11年以前のある時期、「平氏盛阿弥」を中心とする「渡党」たちが、昆布漁や鍛冶業などの順調なる生業を祈念して、石崎の「脇沢」の地に「脇沢山神社」を勧請したのではなかろうか。
この一種の生業神として勧請された「脇沢山神社」は、同時に、志苔館主の小林重弘の末裔の良景〜良定の頃、志苔館を守護する「館神」としても祀られていたのではあるまいか。中世のこの時期、アイヌと居住空間を接する石崎地区には、日蓮の高弟の日持の遺跡である「経石庵」があった。この庵は、小林氏の氏寺ないし和人の共同墓地として機能していたこともひとつの可能性として想定されていい。とすれば、石崎地区は、志苔館にとって一種の「宗教ゾーン」であったということになる。「志苔館とその周辺からみる中世世界」と題する所以である。
(北海道教育大学函館校・教授)
シンポジウム
中世の昔−古い函館の成立と背景
日時:平成10年11月21日(土)13:30〜15:30
会場:サン・リフレ函館(函館市大森町2−14)
パネラー:佐藤智雄氏(函館市教育委員会・学芸員)
富澤嘉平氏(函館市文化財保護審議委員・会員)
高橋重雄氏(郷土史研究家・会員)
コーディネーター:千代肇氏(北海道教育大学講師・会員)
はじめに
千代:北海道の中でも道南は、和人がはじめに渡来してきた地域である。函館においてもその痕跡は各地に残されているが、この和人たちは、いったいどのような背景の中でこの海峡を渡って来たのだろうか。
今日は、考古学的・歴史的視点から、推量も交えながら探ってみたい。
佐藤:函館圏で考えると、残念ながら最近の新たな情報はない。しかし、各地で相次ぐ発掘が行われ、その情報の整理は追いつかないほどである。
このような状況の中、函館においてもこれまでの情報を整理し、他の遺跡により明らかにされた中世的な条件を加えることで、さらなる発見の可能性は拡がっていく。
ここでは特に、志海苔を中心としたエリアを対象に中世箱館について考えてみたい。これまでは館や古銭そのものの存在がクローズアップされてきた。しかし、館を中心とした中世世界の全体像は見えてこない。そこで、市浦村の十三湊遺跡と山王坊遺跡の都市構造を参考に当時の志海苔の姿を再構築してみたい。
十三湊は安東氏(?)館を中心とした中世港湾都市遺跡で、そこには中軸街路を軸とし、短冊状に館や寺院、町屋が広がっており、港湾施設、山王坊跡にみられる宗教施設をも取り込んだものであった。この発掘された遺構の平面図に現在の地籍図を重ねてみると、その中軸街路を軸とした地割がよく残っていることがわかる。
これらの特徴を踏まえ、再び志海苔に目を向けてみると、館跡南の国道沿いにひろがる現在の地割の(1)4本の道路が館跡遺構とほぼ平行であること、(2)館内遺構の通路幅や建物の区画幅と、現在に残る区画単位に共通点が見い出せることの2つの特徴から推測ではあるが、志海苔館を中心とした街の存在が浮かび上がってくる。
これまでの調査では、館を囲んだであろう街については明らかにされていない。しかし、新たな発掘が行われれば、なんらかの発見が期待できる。
富澤:蝦夷地における中世世界は、資料不足による歴史の空白時代といわれることが多い。確かに『新羅之記録』、『東日流外三郡誌』などの史料に限定されている。しかし、この少ない史料の中にも多くのアイヌ蜂起が記録されている。ここでは、和人の蝦夷地進出が、アイヌ社会にどのような影響を及ぼしたのか、アイヌと和人の抗争の背景を探っていきたい。
アイヌ文化は、縄文−続縄文−擦文・(オホーツク文化)と時代を経るなかで、大陸や本州(和人)の影響を受けながら、ゆるやかな変容を繰り返し形成されてきた。
この変容に重大な影響を及ぼしたのは、南部氏との戦いに敗れ、渡道した安東氏である。もちろんそれ以前から、蝦夷地産物交易に携わっていた商人集団がいたことは推測できるし、これらの交易はアイヌの人達にとっても自主的な交易であったと思われる。
しかし、このような勢力の出現によって、早くから渡来していた和人のみならず、アイヌをも巻き込んだ、封建的な体制づくりが進められていった。
一方、和人との交易の中で、知らず知やずのうちに、和人文化に侵食されていき、アイヌ社会そのものの変化が加速されていった。
安東氏、蠣崎氏の道南十二館の支配体制の確立と交易活動は、アイヌの生活基盤を破壊していった。交易の制限、不平等化、河川や漁業地域の立ち入り制限、タタラ製鉄のための薪炭に森林の伐採など、一地域の問題でなくアイヌ民族の存亡に係わる重大な関心事であった。出身地域の和人集団のなかには異様なほどアイヌを嫌い、精神的な差別をしているのが見られる。こう見てくると、アイヌ民族の蜂起は、(1)和人集団によるアイヌ民族の自主交易の圧迫、(2)安東氏を始め各館主のアイヌ生産物の管理強化、(3)アイヌ民族の生活基盤侵食への危機感、(4)生産物不平等に対する不満、(5)渡来集団の系譜にみられる民族差別意識への対抗、(6)蠣崎氏(武田氏)の支配体制確立のための同族抗争とアイヌ民族の利用などが挙げられよう。
高橋:この沿岸中世社会の変容を整理すると、第1期=安東氏の最盛期(1255〜1416)、第2期=安東氏の凋落期(1417〜1441)、第3期=沿岸社会の変革期(1442〜1515)、第4期=道南コタン社会崩壊の時代(1516〜1551)の4つの時期に区分できる。今日は、この中でも特に1255年の道南における中世の黎明期の安東氏と志海苔館の関係について考えてみたい。
志海苔周辺は、コシャマインの蜂起、およびそのコタンが存在する可能性、鍛冶屋村の存在、館跡と小林氏の存在、湊、古銭、鉄さい、鰐口など中世の跡が、他に例がないほど数多く残っており、当時の姿を明らかにする上では興味深い地域である。
では、なぜ1255年なのか。資料の真偽についていろいろ異論があるかも知れないが、『東日流外三郡誌』年表には、1255年に安東氏が多くの一族を送り込んだことが記録されている。権力に関わる部分は疑わしいが、このような部分の記述は正しいのではないか。そう考えて推論を進めていくと、今度は、なぜ安東氏は大量の人々を送りこまなければならなかったのかという疑問が湧いてくる。それには、2つの理由が考えられる。
まず第一に安東氏は、鉄を生産しようとしたのではないかということである。このことは、当時の安東氏の行動や周辺環境の鉄滓、砂鉄の存在を考えると容易に想像できる。
もうひとつは、鉄・硫黄・海産物などの交易拠点としての志海苔をアイヌのコタンから守るために館の構築を迫られた。志海苔館には、他の館には例のない版築技法が用いられているが、こういった事情から大量の労働力が必要になったのではないか。
そう考えると、志海苔地域を舞台として、1255年が中世的価値観をもつ和人社会対古代的価値観をもつアイヌ社会のせめぎ合いの出発点となったのではないだろうか。
おわりにあたって
千代:テーマとなった箱館の成立と背景は、今年度友の会が主催してきた講演会の締めくくりといえるものである。佐藤智雄氏は、津軽の十三湊、中世港湾都市遺跡の発掘調査結果から浪岡城、山王坊遺跡、草戸千軒町遺跡などを例として志苔館跡発掘調査をふまえながら、志苔館を中心とした都市・集落構造を示唆しようとしたものであった。富澤嘉平氏は、和人の蝦夷地進出によるアイヌ蜂起の問題に言及した。和人による交易の制限・不平等化、土地・森林・漁業権など生活基盤の独占、精神的差別を蜂起の要因と考えられた。高橋重雄氏は古記録の「新羅之記録」をさらに発展解釈して、津軽安東氏から、第1期安東氏の最盛期、第2期安東氏の凋落期、第3期沿岸社会の変革期、第4期道南コタンの時代として中世の安東氏と志苔(志濃里)館の関係を述べたものである。
かなり大胆な中世箱館の史的考察もあったが、箱館が単に和人渡来期の物質的資料、板碑、志海苔古銭、鰐口、志苔館発掘資料から集落が都市的性格を持っていたのではないか。交易と志濃里鍛冶屋村と製鉄址の存在、和人とアイヌコタンという新しい認識へと展開していった。
歴史議論の場でないシンポジウムであったが、史実が推考や想像から新しい事実関係を証明することが少なくない。志海苔一帯に和人集団による貿易都市が存在していたのであろうか。在地の集団と移住集団という関係がどうであったのかも考えさせられた。
博物館見学の旅ノート
岩手県・盛岡市への旅
林五郎
平成10年7月18・19日に催行された「博物館見学の旅」に参加した。目当てのMuseumは、(1)岩手県立博物館と(2)盛岡市先人記念館である。
(1)県立博物館
県制百年を記念して1980年に建てられたものである。当時、総理大臣であった鈴木善幸氏の力によると聞いた。こうしたエピソードを聞くのも旅の楽しみの一つである。所在地は、盛岡市の北方に位置する四十四田(しじゅうしだ)公園の中で、岩手山を目前に望む丘にあった。「みちのく」というイメージとは全く異なる姿で風光明媚の中に在った。
館の中は総合展示室(地質・歴史)、分頼展示室(考古・民俗・生物)と特別展示室(企画展・テーマ展の催事場)とに分けられ、体験学習室なども設けられていた。蒐集物や展示物を羨むつもりはない。函館だって負けず劣らずの物がある。
近代的施設・設備も電子磯器による最新の梯能も妬む気はない。いずれ市立函館博物館もそうなると思うからである。しかしながら、あの立地条件と入館者数(開館以来、年平均10万人)は羨望・驚嘆以外の何ものでもない。
(2)盛岡市先人記念館
空間的には県ではなく市の出身者、時間的には明治維新以降の人、125人を選定顕彰したmemorial museumである。内容的には政治・経済・学術・伝統工芸・文芸など網羅されている。その中で新渡戸稲造、米内光政、金田一京助の三人が特別に扱われ記念室を持っている。あとの122人は総合展示室にレブリカと共に記念されている。
目当ての人、久慈次郎、石川啄木、原敬を122人の中に見た。啄木は渋民村出身なのになぜ?原敬は米内光政と比べて遜色ないのになぜ?単純な疑問だったが、説明員(前の館長さん)の解説で分かった。
原敬は独立した「原敬記念館」を持っているのである。啄木も現玉山村に記念館を持っているのである。
個人の記念館を持つ人は、そちらとの関係で扱いに留意したとのことである。久慈さんも東京の野球博物館、函館のオーシヤソ球場にも記念されている。
(3)旅の後で
今回も参加して良かったと思った。原敬記念館はまたの機会にしよう。宮沢賢治記念館(花巻市)も訪ねたいと思う。museumは今その様相を変えつつある。物象は博物館で、物理は学校で学ぶ。そんな図式も変わりつつある。生涯学習という概念が認識されるようになった今日、函館博物館の意義と運営思考は大きな意味をもつ。東北の雄藩に匹敵し、あるいは凌駕する、そんな博物館であって欲しい。(会員)

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